2008年12月17日

ケータイを持ったサル 「人間らしさ」の崩壊

ケータイを持ったサル 「人間らしさ」の崩壊 正高 信男 著 中公新書2003年
 この本では都心を我が物顔で闊歩し、ところかまわずケータイをいじる若者と、彼らを作り出した原因を家族制度の変化、さらには明治維新に男性中心で女性はそれに従属するという論理を民法に反映したところにあるとしている。この民法により性差が生まれ、家庭が裕福になるにつれて母親は働かなくてもよくなり、その代わりに父親は働き続けることになる。すると子供と直接接するのは母親だけになり、母親が接するのも子供だけとなる。家族関係と公空間に出る機会を失ってしまった子供は公空間に出るのを拒み、「家の中」に引きこもるか、公空間も「家の中」として行動するかのどちらかになる。著者が「ケータイを持ったサル」としているのは後者である。サルもまた公空間を持たないということで現代の若者を「サル」と呼んでいるのだろう。
しかし、実際にこのような状態をもたらしているのはもっといろんな要素が絡んでいるのではないか?サルを見ると常に一匹母ザルが子供を抱いてまさに依存しているように見える。このような環境に必要な存在は父ではなく、兄弟だと思う。年が違えばかかわる環境も変わり、考え方も異なるはず。母も一人当たりに依存する時間は減るし、その分公空間に出て行きやすくなると思う。


同じカテゴリー(読書)の記事

Posted by 安谷屋 邦尚 at 18:24│Comments(0)読書
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。